大小の島々が浮かぶ瀬戸内の一角で、何千年かの間、水道の時代を経た後に湾が生まれたのは、ほんの400年前のこと.吉備の穴海の歴史から眺めると、ここに児島湾という名前が与えられたのは、ごく最近のことです.

 今ではすっかり小さくなり、くぼみのような地形になった児島“湾”のまわりで、旧児島湾・研究会は湾の奥が大きかったころに広がっていたという干潟の変遷を追って来ました.この作業の中で、《児島湾》の名を与えられた明治期の終わりから、人々の心は湾をどんどん離れていき、名前はやがて忘れられ、湾そのものも消えて行くことまで計画されたかのように、その目論み通りの運命を辿っていることがわかってきました.

 江戸期から明治期にかけて、名前がなかった湾は「瀬戸内海の魚は何でも入って来た」豊かな海でした.漁師の道具や漁獲物を中心にしたにぎやかな村がいくつもあり、漁民も農民も近くのドベ(干潟)で「おかずとり」をする日常がありました.湾岸の人々には、大きな変化、小さな変化の傍らで干潟とともに生きていた時間があったのです.児島湾の奥ですなどる人々の風景を探すことは非常に困難です.児島湾の時間を遡ろうとすると、歴史はまるで児島湾干拓から始まったかのような記録ばかりが手に入ります.児島湾の奥に現れた湖のまわりの水辺環境は「豊かだった」のではなく、これから「豊かにしていく」ための努力、知恵が求められているようです.即ち、これは児島湾干拓が未完了、成功に至っていないことを意味します.この事実をぬきにして児島湖=旧児島湾の環境を語ろうとする姿勢は、この国が戦後歩んで来た歴史そのもので、現在、日本のどの問題にも当てはまる図式のようです.

 昭和40年から50年代にかけて、やはり淡水湖時代以前の児島湾の存在が気になるひとりの人が湾岸の漁民の影を追っていました.岡山市の郷土史家湯浅照弘さん(昭和3年生まれ、山口県下関)です.在野の研究者の先輩が残した記録を足がかりにして、児島湖発達史と表裏にある児島湾衰亡史をまとめようと思います. 

                                         文/森千恵