松尾の漁師

[話者/玉野市松尾 昭和9年生まれ]

松尾の漁師

[話者/玉野市松尾 昭和9年生まれ]

 

 わしらのころは学校やこ行きよらん.みんな仕事ばぁさせられて、12歳、13歳のころから親父にくっついて犬島の方で《ガネヅリ》※したり、児島湾なら、大崎の駅の向こうまであった海へ行きよった.ハモやらウナギやらアナゴやら捕りに行った.ハモなんて子どもの腕くらいあったし、たくさん、ええ魚がおったんよ.潟が埋めたって干上がるまではなあ.友だちの漁師は郡の弁天島の辺りで畳くらいのエイを釣ったこともあったよ.その弁天島の辺りは、阿津の方の漁師が《カセ》(樫木網)を建てていた.電柱くらいの大きなマキをずっと建てておった.そこへ潮がトロんだ折に網をしかけていた.

あの頃の船は小さくても5尋くらい(約9m)はあって、親父の船もそのくらいあった.この家の前には船が40杯くらい停まっておったよ.漁から朝帰って来るもん、昼帰って来るもん、夜帰って来るもん、色々と居ったから、この家の前の波止場には、いつでも人がいた.仲買の「イシモトのおじさん」というのが、いつも漁師が魚を持って来るのを待っていた.帰って来た漁師はドウマル篭というのに魚を入れて行く.仲買は、それを帳面につけておく.

犬島に行ったときは、九蟠か牛窓の市場に持って行った.京橋の市場なんて行かんよ.時間もかかるし、油も使うからな.オキガイ(沖買い)の人も買いに来て、イケマとかイケスとかいうのに魚を入れて行く.

 漁場をまで行ったり来たりするのにはエンジンを使った.網を引くときは帆と櫓を使う.中にはミズホ(水帆)を使うものも居った.使っていた櫓は20cm幅くらいの大きなものだった.櫓屋というのが居って、樫の木で作ってもらう.わしは牛窓の櫓屋に作ってもらった.櫓を一本買ったら当分は魚を捕っても儲けにならんよ.何万円も出して買うもんじゃからな.いつも現金一括払い.

 犬島の方へ行く時は、1週間くらいは船で過ごす.寝るのは船の2畳くらいのところに蒲団を敷いてもぐりこんでいた.飯を炊くのも船の上.野菜なんかは持って行かないが、カニを捕っているから、もげた爪だとか、魚だとか、そういうおかずがある.水槽に活かしておくカニが、ときどき衣(キヌ)を脱ぐ.脱皮じゃ.脱皮したての柔らかいカニは水槽の中で放っておいても死んでしまう.だから、脱いだ殻が浮かんでおると、脱皮したての柔らかいカニを炊いて食べるんじゃが、これが美味しかった.爪の先から何から、みな食べられる.あれは漁師だから食えたんじゃろうな.

 児島湾ではウミダケ(海茸)が美味しかった.船の上から、十字になった鉄の先を長い柄をぐりぐりとまわして引っ張り上げると、そこにたくさんひっかかる.10年くらいの間は、ようけ居ったんじゃ.いつの間にか居らんようになったな…….殻は10cmくらいのもんで、捕ったときは黒くて汚いように見える40cmくらいの水管のところに塩水かけてゴシゴシ洗うと、きれいな白色になる.これが炊くと美味いんじゃぁ.洗って白くなったものを、おふくろが自転車に積んで七区の方に売りに行きよった.米に換えてもらったりしておった.松尾は田んぼがないんじゃ.麦は作れたが米を作れん土地じゃった.水がみんなぬけてしまう.郡も八浜も田んぼがあるが松尾にはなかった.

 家のすぐ前の海ではオウジマクラを子どもが捕っていた.石をめくれば誰にでも捕れるからな.潮が引いているうちにカキのついた石を集めてカキウチして小遣い稼ぎしている女の人もいた.貝殻で手を切らないように、指袋をはめてチンダイを捕る人もいた.潮が入ればもぐって捕ったりしていたよ.

 

※ガザミを《ガネダマ》で捕る

 

 

                                   (聞き手、文/森千恵)

あそこのガードレールのこちら側まで海じゃったわけじゃから.すぐそこの海に飛び込んだり、貝を捕ったりしていたし、大阪行きの船がしょっちゅうそこに来てコールタールを塗っていた.海と家の間の道も、もっと細くて、馬車がよく行き来していた.

あの縄はわしが編んだんだ.シュロの皮を繋げて、3本を撚ってな.長いのを作った.

左は灯油ランプ.右はガス灯.漁に使っていた.

マスト(一番下)と帆(マストの直ぐ上)は、船の前の方に差し込むところがあった.櫓(塩ビ管の上二つ目)は、使っているうちに「ちびてしもた」.漁の船には、このほかミザオを4、5本載せて何かと使っていた.

写真:湯浅照弘 「松尾のイケス」

宿老のこと      

[話者/玉野市八浜 昭和7年生まれ]

私の家は、江戸から明治の初めまで樫木網漁の元を持っていました.網元というのとは違う、《宿老シュクロウ》というものです.網元というのは全ての漁の元締め、全てを治めるものです.一方、私の家は樫木を持っていて、樫木杭を打つ権利を持っていた家で漁をする家ではありません.今、八浜の人で宿老なんていう存在があったことを知っている人はいないでしょう.どうやってそういう家を決めたのかはわかりませんが、家には樫木を建てる権利があったのです.それを曾祖父じいさん、おじいさんがみんな売って、山で村田銃を撃ちに行ったり道楽しておりました.だから、私の代には何もなくなって、私は児島湾の干潟で金に換えられるものは何でも捕って売りました.チンデー(アゲマキ)は良く捕ったし、川でミミズも捕りました.七区の堤防の樋門のところで死体がよく流れ着く場所があって、死体があがったところでは、オトナは貝を捕りません.そういうときに入って捕りに行きました.金がなかったから.年が離れた兄貴がいて、私の面倒をよく見てくれました.25、6歳の頃に弟を学校に行かせてくれた人です.私がドベで捕った貝やら魚やらが入った70cm四方ぐらいの箱を4つも5つも自転車の荷台に積んで山を越えて売りに行ってました.七区にはヨシがたくさん生えていて、それを刈って売ったりもしました.早島の方から買いにきていた人がいたのです.そのヨシ原は潮は入って来ない、陸の乾いたヨシ原でした.戦争が終わってすぐに七区の堤防工事が始まって、兄貴もそこで働いていました.農林の三輪トラックで資財運びをしたり、トロッコで運搬したり.作り始めたころに杭を打ち込んで橋のようなのができたところを自転車で通ったのを覚えています.

                                   (聞き手、文/森千恵)

memo

樫木網漁の網元については、阿津で聞くものと八浜で聞くものでは、少し印象がちがう.阿津の大漁師は「格が違う」という表現がされる.八浜は、ここでいう宿老と網主が混同して語られているように思う.それは、漁場と網の大きさが関係しているかもしれない.阿津では、巨大な杭と網とその普請を維持できる家であることが必要だったことに対して、八浜は杭が阿津ほど大きくなく、阿津のように普請にそれほど人員を必要としなかったようで潮の上下に合わせて網を移動させる程度のものであったらしいこと、喧嘩っ早かったという伝承と、明治期の藤田干拓と並行して、それまでの漁撈とは異なる経営方法で湾から収益をあげた人が八浜の大きな商人であったことが事実としてわかっているぐらいだ.児島湾南側の加古浦から出発したという樫木網漁の3つの網元をムラギミのいくつかのパタン(漁業部落の精神的指導者タイプ、旦那タイプ、漁労長タイプ)に当てはめてみたいところだが、データが少ない.

C.M

参考:(財)日本民族学協会編(1959)『日本社会民俗辞典』第4巻, 誠文堂新光社.

戦後すぐに始まったという七区の堤防工事と ニシザオと呼ばれた樫木漁場の辺り