乙子聚鱣社常夜灯の謎解き

現在の聚鱣社常夜灯は、乙子湿地対岸にできた新しい堤防の上に平成22(2010)年に再設置されました(★2).元々は明治7(1874)年に、ここから16.7m上流に「聚鱣社」が建てたものです(★1).

江戸期に高瀬舟によって流通が栄えた吉井川周辺には船着場の目印と安全祈願を兼ねた常夜灯がいくつもあります.

ところで、聚鱣社常夜灯はサイズ、デザインとも立派であるものの、建立意図が不明と言われています.聚鱣社常夜灯には、その社名のみが刻銘されており「金比羅大権現」「瑜伽大権現」もなく、それに準ずる祭祀に関する印がありません.

「聚鱣社」即ち鰻を集める会社の名前がついた会社は、升田といくつかの村の漁業者が出資して魚を販売目的に作り、明治24(1891)年頃に解散した会社です(辻野, 2010).この常夜灯について調査された辻野氏は「聚鱣社」について、明治大正世代の方々も含めて尋ね歩かれたようですが、報告にある通り地元の聞き取りでも、「聚鱣社」の名前で記憶している人は皆無だったといいます.

 その理由はさておき、常夜灯の目的について、根拠が少ない中で確信している私のささやかな仮定を記しておこうと思います.聚鱣社は、シラスウナギを集めて養殖を始めようとした、児島湾で最初の会社だったのではないだろうか.聚鱣社常夜灯の上流500mくらいの乙子山の北側麓には乙子湿地と同じようなヨシ原が広がっており(B)、さらにそこから500mくらいのところに、乙子と新村が接する橋があり、秋以降シラスウナギを捕る漁業者がカンテラを手に手に持って採集する場所でした(A).

 

「聚鱣社」は、上って来るシラスウナギを先取りして集めようとしたのではないでしょうか.「そのための灯りにちがいない」という想像に捕らわれています.

                                       (文/森千恵)

 

 

辻野喬雄(2010)「乙子「聚鱣社」常夜灯」『岡山民俗』 231,pp.13-21,岡山民俗学会

乙子の憂鬱

話者/森千恵 岡山市北区

吉井川の河口にある乙子に70年近く暮らす三木さんは、魚を捕りに今でも船で出かけて行きます.以前は市場に出すために捕っていましたが、今では自家用がほとんどで、帰省した孫の期待に応えて鰻をご馳走するのが何よりも楽しみです.乙子町内には三木さんのほかには、こうして魚を捕る人はふたりだけになりました.だから乙子の港に停まっている船は、乙子の知り合いを頼って停めさせてもらっている船が多いそうです.

その中に、乙子の規則を守らずにウナギの仕掛けをして捕ってしまう“困った人”がいると乙子の町内で聞きました.

蒲焼きでお馴染みのニホンウナギの絶滅が心配されていることは、今では小学生も知っていることです.特に、秋に産卵に向かうオチウナギとか銀ウナギと呼ばれるニホンウナギを捕ることは避けるべきというのが研究者や保全活動をしている人たちの常識です.

岡山県では、20cm以下の小さなウナギを捕る事を禁止していますがウナギの禁漁期間は特に決めていません.また、吉井川で壷縄漁をする許可は5月~10月と決めてあります.

ところが他所から来て乙子に船を停めている“困った人”は、「ここは吉井川ではない、永江川である」と、乙子の人が昔打った杭にウナギの仕掛けをしてウナギを捕り、どこかに売っているようです.また、この“困った人”に捕ったウナギを売ってもらっている人もいるようです.困った人は、困った人を呼ぶ仕組みがあるようです.

約束を決めて守っている人の鼻先で約束を無視してお金儲けをするのはおかしな事だと思います.

国土交通省河川事務所は、「ここは永江川ではなく吉井川の区分になるが、漁の規則のことは、地図で決められるものではないかもしれない」と言っています.

地元の子どもたちに「ウナギ学習」をするときに、どう説明すれば良いのでしょう.

 

               

                                        文/森千恵

児島湾の幻がみえる乙子湿地

児島湾の一番東に注ぐ吉井川河口.江戸期の幸島新田干拓以来、この周辺で起きた大きな変化は、洪水/浸水は別にして、昭和17(1942)年から昭和31(1956)年にかけて(株)テイカと(株)日本エクスランの建設/事業開始かもしれません.高度成長期の汚染や船舶運航のための浚渫などによる環境への負荷は簡単に想像することができますが、それを上回る変化が湾の奥で起こっていたためか、この河口で起きていたことはむしろ影が薄いように見えます.いずれにしても、この時代の日本のどこにでもあった水辺の変化が、ここにもありました.そこに、ひとつだけ、奇跡的に残っている小さな湿地がありました.それが乙子(オトゴ)湿地です.昭和55(1980)年にラムサール条約締結国に加入したことを契機に国内の湿地の重要性を見直しはじめる中で見いだされた小さな湿地です.「日本の重要湿地500」(保全すべき湿地)のひとつになったのは平成13(2001)年で、そのときに《永江川河口湿地》の名前で登録されました.

 その後も周辺の環境は徐々に変わっており、湿地自体も防災のための護岸工事等によって縮小しましたが干潟後背湿地(いわゆる葭原)の無脊椎動物は安定して生息を続けているように見えます.

でも、湿地という特性を考えれば、いずれ失われる環境であり風景であると思われます.これは、児島湾の個体群の絶滅を意味しています.なぜなら、ここが、児島湾にかつて広がっていた干潟の面影を残す最後の場所だからです.                             文/森千恵

乙子山ふもとのヨシ原を迂回していた流れがありました

〜1972―1993年の上空写真から

1953年から1965年までの間、乙子山※北側にあったヨシ原付近の約3000㎡にわたって、家庭ゴミなどが捨てられたり焼却されたりしていました.ゴミの埋立場所は1965(昭和40)年に現在の山南中学校(岡山市東区)に移転されています1957年から1958年には乙子湿地の対岸の干潟約30haのところに日本エクスラン株式会社の工場が建設されました(西大寺市史編集委員会, 1980、辻野氏私信).1960年代の初めは、県内河川の至るところで年間500万tの砂利採取が続いていたと考えられます.吉井川中流部にある香登付近でも幅50m深さ4〜5mを400メートルに渡って掘り出しが行われておりました.この砂利採取が全面的に禁止されるのは、1972年になってからのことです(吉澤, 1987a、吉澤, 1987b).

                                         文/森千恵

 

 

※乙子山標高47.8m.宇喜田直家が1544(天文13)年に山城を築いたと言われている.木の葉が落ちる冬になると乙子湿地の一部を見下ろすことができる.

 

 

西大寺市史編集委員会 1980)『西大寺市史』  岡山市

吉澤利忠a 1987)川とくらし60年 砂利 下 山陽新聞,37582:17 8月21日付 山陽新聞社

吉澤利忠b 1987)川とくらし60年 乱掘時代 下 山陽新聞,37623:19 10月2日付 山陽新聞社

 

 

1898(明治31)年から現在までに作られた地図を並べると、乙子湿地が何十年かの間に徐々に発達してきたことがわかります.吉井川、干田川と満潮ごとに児島湾の方から入り込む海水が作り出した地形と環境でしょう.児島湾の奥が大きく、干潟が広がっていたころに、そこにいたおびただしい数の生き物たちの幼生が、湾の奥と似たようなヨシ原にたどりついて子孫を増やしていたようです.乙子のヨシ原に暮らす干潟生物のご先祖さまたちが初めてここにたどり着いたのは、どうやら人々が乙子の集落で暮らし始めるよりも後のことだったようです.今では、湾の奥の“本家”はなくなり、この小さなヨシ原の潮が入るところだけが児島湾のすみかになりました.

乙子湿地.対岸にはいつも日本エクスランの煙が上る.

乙子湿地は、今は国土交通省が管理しています.それよりむかしには、冬になってヨシを買う夫婦が乙子に一軒ありました.乙子の人たちが協力して刈ったヨシをひと冬1万円くらいで買い取っていました.牛の飼料やヨシズ、屋根葺きなどに使われていた時代には、ヨシはれっきとした換金作物だったのです.乙子の人々がみんなで刈りとるほかに、個人で1反(1000㎡)程度を管理している人もいました.田んぼが終わる冬に刈っていたヨシですが、季節を違えて青いヨシを刈るとその次から生えて来ないといいます.また、ヨシにも価値の上下があり、中空のまっすぐな《マヨシ》と芯がある曲がったナマズでは、《マヨシ》が好まれました.乙子部落で行う冬のヨシの刈取りは昭和60(1985)年ごろまで細々と続いていました.

乙子湿地は周辺干潟は2haと言われていますがヨシが生えている面積は2000㎡くらいです.マヨシが生えている面積はさらに小さくなります.《マヨシ》が生えるところは葭原の中でも少し地盤が高いところで冠水する時間がまわりよりも短くなります.干潟の中に地盤の高低差があることが、この葭原内の生き物の種類を多くしています.                           

                                         文/森千恵

乙子湿地の下流に見える児島湾口

湿地の対岸から、昭和30年ころの吉井川を上る

平成16(2004)年にこの湿地が経験した、初めての大工事が完了しました.小さな湿地は、本当に小さくなりました.石組の堤防の歴史とともに隙間に隠れていた干潟の環境も消えました.

忘却

 

升田にあった魚類販売を手広く展開していた「聚鱣社」が1874(明治7)年に常夜灯を建てた古い堤防は、2000(平成12)年の堤防改修工事の際に消失しています.この石組みの旧堤防は1684(貞享元)年の幸島新田造成の際に築造されたと思われます(未確認).2009(平成21)年に完了した吉井川河口の改修工事によって、3.29haのヨシ原のうち消失面積は、設計図上は1.042haです.しかし、工事に先立って行った石組み堤防側の生物採集から、積まれた石と石の間の堆積物が維持していた干潟環境は、実際にはさらに大きかったと思われます.満潮時には、土台石が潮に洗われながら、船越しにヨシ原を臨んだ常夜灯は、現在は元の位置からはさらに下流の大堤防の上からヨシ原を見下ろす位置に建っています(辻野, 2010、森, 2011).

 

 

辻野喬雄 2010)乙子「聚鱣社」常夜灯 岡山民俗,(231):13−21

森千恵 2011)日本の重要湿地500 永江川河口湿地の形成と周辺環境の移り変わり 倉敷市立自然史博物館研究報告,(26):7−12

 

古い石組み堤防の石と石の間から、おびただしい数の貝類が採集された.当初は生物研究者の提案に基づいて施工業者と国土交通省が地元町内会から協力を募って「保全事業」を実施し、その後も工事の完了直前まで毎年、町内の人の手によって、この採集は行われていました.採集された個体は、すべて対岸の乙子湿地に移されました.現在ここには拡張された道路としっかりした堤防が視界を遮っています.

乙子湿地の西側を流れる吉井川、上流方向.現在(右写真)は、左写真の右側の茂みが伐採され、整備され、薮はなくなっている河原ですが、見通しがよくなった野原の中に、ときおりタヌキやキツネを見かけます.

同じ地点で撮影した2枚の写真、今では、乙子湿地からも乙子集落からも、お互いが見えなくなりました.

新しくできた樋門から上流側には、以前は潮が入り込み、ウナギや黄シジミと呼ばれるヤマトシジミが多産する汽水域があり、冬に集まるシラスウナギを求めて漁業者が集まる水門がありました.

集まって来たシラスウナギをガス灯でさらに集めて、タモ網で掬ったという新村(シムラ)の小さな樋門(左写真)は今はなくなりました(右写真は現在の同地点).

ここに湿地がある間は、干潟の生きものたちは、ここにいます.そして、ここに、この生きものたちがいる間は、ここは生きている湿地です.

トビハゼ

アシハラガニ

ハマガニ

シオマネキ

カワザンショウのなかま

オカミミガイ

いっぱい

乙子で時間を遡る

         平成25(2013)年 東区乙子公民館にて

乙子湿地が載っている一番古い地図は、幸島新田ができた貞享元(1684)年のものです.乙子地区の人に、乙子湿地(永江川河口湿地)の本当の名前を尋ねて歩き、名前がなかったことはわかりました.そこは、ただヨシワラ、ハタケ、カワニシガワだったようです.乙子で古い写真を囲んで思い出した風景をご紹介します.

【西大寺は別世界】車がない時代には観音院に年に一度歩いて行くくらいのもので、今のように買い物に行くのとは全然ちがいます.毎日の要りようのものは、豆腐でも酒でも履物でも乙子で買っていました.戦争のころ、大阪から米を買いに来る人が珠に居たが、舟で西大寺まで送ってやったことがあります.捕まっていたこともあったらしいですが.娯楽が少ないそんな時代には、どの村でも村芝居が流行りました.自分たちで演じるのです.衣装も小道具も舞台も皆自分たちでやります.乙子神社でするのですが、乙子の芝居はなかなか上手なので有名だったのです.

【乙子の子どもの水辺】今の新しい大きな乙子樋門から下はニシガワと呼んでいて、夏には子どもが水泳するところでした.潮が満ちると、女の子でも男の子でも小さい舟に乗ってハゼなんかを捕りに渡って行きました.ヨシワラのところに西瓜畑があって、それをひとつもらって吉井川の向こうまで運んで向こうで食べたりもしました.子どもがすることに、そう、うるさくありません.吉井川の方に干潟が出ると、そこで野球をしていたものです.うっかり潮があがってくると帰りには少し泳いで戻ることもありました.

【赤い寿司】乙子山のふもとを川が迂回して流れていた頃、そこにもヨシワラが広がっていてウナギがたくさん捕れました.今、資財置き場になっている辺りです.その少し上流の新村の樋門のところはシラスウナギが集まるところで、夜にはランプをもって専門の人が捕りに来ていました.集まって来たシラスウナギを網で捕るのです.お祭りがある10月の中ごろはウナギ捕りの季節です.四万十の方から伝わったらしいが、メタイガマというのがボコボコといくつもあった.そのまわりにウナギ篭をめぐらせておけば、15、6匹は毎日捕れました.一日に何十キロも捕れて舟の中でうじゃうじゃしていたのを覚えています.幸島の仲買のところに持って行きました.それをどこかで6000円/kgぐらいで売っていたらしいです.子どもだって、竹竿にミミズをつけておけば1回で3匹くらい一度に釣れました.餌に一番良いのはゲンタです.ウナギはゲンタをどんどん呑んで離しません.穴を掘って泳ぎ出るアナジャコを捕って使う餌です.ウナギ捕りは食べられるものだから面白い.お母さんだって怒りません.喜んでいました.捕ったウナギは蒲焼きやばら寿司に入れます.醤油で炊いたウナギが入ったここらのばら寿司は赤かった.赤い寿司をよく食べた.このウナギの味を知っているからスーパーで売っているものは食べる事ができません.護岸工事は9月なので落ちウナギが捕れないから補償金をもらいました.落ちウナギは太平洋に向かう、肥えて美味しいウナギです.乙子の堤防ができるまでは100匹くらいは捕れていました.今は水門湾に行きます.漁協の正組合員は仕掛けを100本までできますが、今は海苔養殖をしている人しか正組合員はいません.

【むかしよく見た、今いない】水門の南や九蟠沖の鳩島辺りで、よくカブトガニを見ました.食べてみたこともあります.食べられるには食べられた.ナメソ(スナメリ)も見たし、黒いエイの大群も見ました.アカエイでなくて黒いエイでアサリを食べ尽くしてしまうエイです.幸西のところの干潟は今はもうありませんが、カタツメ(シオマネキ)もいました.干田川の河口では黄シジミ(ヤマトシジミ)をたくさん捕りに来る人がいました.年間200万円くらいにはなっていたのだと思います.今は干潟が下流に移動して泥干潟になってきています.黄シジミは砂地のところで捕れます.

                                     聞き手、文/森千恵

 

平成18年生まれの人々に《ウナギへの思い》を巡らせてもらった

 

1)ウナギの味は好き?

 

好き!

食べたこと

ない!

食べてみたい!

食べたくない!

その他

(魚きらい!orふつう)

21

2

2

1

2

 

2)ウナギが絶滅しそうなことは知ってる?

 

  知ってる!……27人 知らない!……4

 

3)それは、どこで知ったの?

 

  テレビで見た、言ってた!……3人 授業で聞いた……2

 

4)みんなは吉井川や児島湾にウナギがいる方がいい?いない方がいい?

 

  いる方がいい……30人 いない方がいい……1

 

5)それはどうして?

 

  食べられなくなるのはいやだ……10人 なんとなく……2人 

  いてほしいと思うから……2

  食べ物が減る……1人 釣れなくなる……1人 

  さわって気持ち悪かったからいてほしくないけど、食べてみたい……1

 

6)みんなはおとなになったらどこに住みたいと思うの?

 

  岡山!……19人 岡山を離れる!……13人 

  その他(わからない、自然が豊かなところ、団地)……3

 

                                 聞き手/森千恵 2016年