【竹崎漁港で】

 タイラギは7年周期といわれていて、締切堤防ができる前も時おり休漁はありましたが、今年で捕らなくなって5年にもなります.タイラギ漁では人を雇えるような人件費を出せなくて、親子で捕っていました.むかし、1年だけタイラギ漁で潤ったときがありました.異常に発生したときもあった.時間制限をして濫獲を防いでいたようだが、150隻も船が出てとれば、どうしても濫獲にはなります.鹿島からも七浦浜の方からも集まって来ましたから.そのときの価格は1500円/kgでしたか.3時間で150kg捕りました.そのときは、潜ると足の下でタイラギがガサっとするんです.そのころは、有明海には億の金があったわけです.

 初めて潜ったとき、私は41kg捕りました.その次の日は38kg.それは覚えています.自分の技術は中程度.タイラギ漁は、技術の差は歴然と出て来ます.例えば私の叔父さんは130kgも捕っていて、私の父親の何十倍もとっていました.努力では技術の差は埋まりません.父親は学校の先生だったのですが、叔父さんが引き上げてきて、真鍮だとか鉄製品が高い時期に潜りになったのです.

1997年に締切堤防ができて、3年間くらいは少し離れた大牟田沖で何とかタイラギ漁もできたのです.県境のギョバ(漁場)です.3年くらいはタイラギでご飯が食べられたのです.段々と貝が立ち枯れ始めて、それが続くようになりました.小長井漁協では20年ぐらい捕れていません.工事が始まってからすぐに捕れなくなっています.堤防ができるよりも前からのことです.逆に,締め切られた後は今まで捕れていないところで捕れるようになりました.今は私はエビを捕りに行ってます.アミは今年は捕れ過ぎています.エビもカニもアミも変です.むかしはシタビラメが港のまわりにもいっぱい、いたものです.4種類いるのですが、シマゲタ、クツゾコ(デンベエシタビラメ)、クロシタ、アカシタです.今はクロシタは下津井(岡山)から来ますよ.旬は4月から7月くらいで最盛期は6月です.スズキは今でもいくらか捕れますが、昔はもっと捕れました.今では小長井直売所なども、地元の魚がないのです.魚が減っているのは魚群探知機で捕りすぎている影響もあると思います.冬に、海底に沈んでいるところを捕ってしまいますから.

 私の部落は子どものころは「中学を卒業したら漁師になる」と決まっていました.「われもわれも」という感じに漁師をめざすものでした.

 観世音寺の鬼祭りは無形文化財に指定されていて、この祭りを中心にした青年団の上下関係は、それは厳しいものでした.先輩を立てるとかそう言うルールを学ぶところ.でも、今はサラシを巻く人も居なくなっています.成人式を迎える人、成人して1年目のひとが参加するドウジマイという、裸になって参加する儀式ができなくなっています.

タイラギでにぎわっていた部落だから、タイラギがいなくなって、タイラギ漁がなくなって、若者がいなくなって、やがて地域が衰退してしまう.川が海に流れるのが自然.それに抗う国の大きなプロジェクトには、自然の報いがつきものだと思います.干拓農家でも、借金だけが残る農業者が多いのが現実のはずです.干拓地の農地の生産物は、それまであった農産物と競合しないために地元には出荷しずらいみたいです.だから、輸送コストをかけて遠方に出荷することになるのです.

 

                           [聞き手、文/森千恵 2014年秋 諫早]

 

 

 

【小長井町漁港で】

補助事業のアサリとか牡蠣で食べている私たちは、本当の漁業者とは言えないんですよ.補助を受けると、たいていの人は、いつかもらえなくなるときが来ることを忘れてしまうんです.普通の人は、目の前のことさえ良ければ、それで良くなってしまうものです.そういうことを責めるわけにはいきません.若い人も、補助事業で生活できていればそれ良くなってしまって、やる気がなくなってきます.私の息子も10年漁師をやって40歳になるが、陸に上がりました.一度陸に上がったら、戻れないと思います.そうやって、後継者がいなくなると、漁に投資する必要も楽しみも全部なくなってしまうのです.ここに生活する限り、開門を主張する活動を続けざるを得ないけれど、最近は本当に逃げ出したくなっているのです.自分の後継者がいなくて、それだけでやる気がそがれるのに、闘わなくてはいけない状況が本当に辛い.この間も「開門調査をちゃんとやれ!」って訴えただけなのに公務執行妨害で逆に罰金取られてしまった.おかしいと思いませんか.実際に職務怠慢だと思うし、それを指摘した市民が罰せられる.漁師がみんな死んで、ここに宝の海があったことを知っている人がいなくなるのを待っているとしか思えないですよ.

 

       

                           [聞き手、文/森千恵 2014年秋 諫早]

 

 

 

【本諫早で】

はじめは諫早の干拓計画は、《からめ工法》という基礎を土台にするものだったのです.これは、山の土も石もとらない自然にまかせる工法でしてね、私はそれで工事がされるものだとばかり思っていました.ところが、実際にはちがったのです.

 私の父親がウナギ捕りの名人でした.ウナギは、ヨシが生えている海岸に穴を掘ります.親父は鍬をもってウナギの穴を掘ってつかみ取っていました.大きな《テボ》を担いで鰻屋さんに売っていました.諫早には3軒鰻屋さんがあったのです.湯江や小長井の海岸には石を置いた《巣どころ》を作るしかけがありました.ここらは海流にのってウナギの稚魚があがってきます.ウナギ捕りは難しくて、兄貴は行ったが私は行っていません.穴に突っ込む腕が長くないと難しいのです.でも、私もイタにのってアゲマキを捕りに行きました.60歳くらいのひとは、みんな乗っていますよ.アゲマキがいるのは沖の方です.一家に一枚イタがありました.ひとりで行ったり、友だちと行ったり.潮が満ちて来るときはわかります.捕っていると帰りずらいものです.少しずつ岸に近づきながら戻ってくるのです.捕った貝は自家用です.余ったときには町の店に売ることもありました.

 ドウキン(ワラスボ)も捕りもありました.竹の棒の先につけた金具でひっかけてとります.アゲマキもムツゴロウもドウキンもシシガイ(ハイガイ)も炊いてから干して食べます.みんな美味しかった.ネコムツ(トビハゼ)は食べませんでしたね.

 堤防で締切られた後も、しばらくムツゴロウを捕る人もいました.堤防の内側には、もともと半農半漁の人が多かったですが、今では堤防の外側の干潟に捕りに来る人はいないでしょう.干潟を経験している子どももいなくなっているのではないでしょうか.

堤防で締め切られたすぐ後に、友人と水辺を歩いていてブクブクと水がわき上がっているところを見つけたことがあります.多良岳にしみ込んだ水がこうやって諫早湾でわき上がっていたのだと思いました.こういうことが色々な生き物を育ててきたということなのでしょう.

                           [聞き手、文/森千恵 2014年秋 諫早]

 

 

 

【高来のエビスさんの横で】

深海にはタイラギ漁師がたくさんいたが、今はいません.私は船の修理の仕事をしてきました.ここは堤防の外側だし、「何か別のことで食って行ける」ということで補償など関係ない立場なんです.でも、漁師がいなくなったら船の修理の仕事もなくなります.

 堤防ができるまでは前の干潟におかずをとりに行きました.アゲマキでも牡蠣でも魚でも.今はほとんど捕りません.

 高来には漁業権がなくなったから、前の海は小長井の漁場になりました.アサリの養殖はしているけれど、誰も捕りません.

 私はもう年寄りだし、やることもないから、毎日、こうして畑をやっています.この畑の持ち主は、もっと年寄りだから代わりにやっているのです.息子は、船ではもう食えないから自動車の整備をしています.

 

 

                                                                                                        [聞き手、文/森千恵 2014秋 諫早]

 

【牡蠣小屋で】

堤防が干潟を締め切って3年くらいで乾いてきました.牡蠣床があったところに木が生え始めて、草が生えて緑になりました.

 それまでたくさん捕れたウミタケが、堤防の内側はもちろん外側でも捕れなくなりました.

 子どもの頃は潮が引けばアゲマキを捕りに行き、泳ぎたければ潮を待ち、満ちて来るなり飛び込んだ.

 

この牡蠣小屋は以前は干潟の脇にあって、小屋から潮が満ちて来るのが見えてお客さんを驚かせていました.遠くにあった潮がみるみる満ちて来てみんなびっくりしていました.

 

                                                                                           

                                                                                                        [聞き手、文/森千恵 2014秋 諫早]

備讃瀬戸の児島湾、児島湖、有明海の諫早湾、調整池


残された風景から、湾の奥がなくしたものを拾ってみる

有明海の思ひ出 伊東靜雄

 

馬車は遠く光りのなかを驅け去り

私はひとり岸邊に残る

既に海波は天の彼方に

最後の一滴までたぎり墜ち了り

沈黙な合唱をかしこにしてゐる

月光の窓の戀人

叢にゐる犬

谷々になる小川・・・の歌は

無限な泥海の輝き返るなかを

縫ひながら

私の岸に辿りつくよすがはない

それらの気配にならぬ歌の

うち顫ひ ちらちらとする

緑の嶋のあたりに

遥かにわたしは目を放つ

夢みつつ誘はれつつ

如何にしばしば少年等は

各自の小さい滑板にのり

彼の島を目指して滑りに行っただらう

あゝわが祖父の物語!

泥海ふかく溺れた児らは

透明に透明に

無数なシャッパに化身したと

作者註 有明海沿の少年らは小さい板にのり八月の限りない干潟を蹴って遠く滑る.

シャッパは泥海の底に孔をうがち、棲む一種の蝦

 

 

 

藤田富子※

 

直土の 干潟 やは土 秋のま日に はろばろしかも かげろうふの立つ

 

海ゆ見る 石垣堤 日に向かう 湾をせばめて つらなり流し

 

時の力 人の力は 今しかく 吉備のついり海を陸となしつる

 

牡蠣つける 潮さび石の石垣に 波よせてわが 舟つきにけり

 

海干せる 五百しろ小田の 豊秋を 父もみませぬ 夫もみませぬ

 

とのぐもる ひわれやは土 むらむらに 紫苑吹きいて 干潟はひろし

 

見はるかす 干潟はひろし 鳶が舞ひ 白鷺下りぬ 秋のひるなり

 

 

※(財)藤田美術館理事、館長 藤田平太郎の妻

 

memo

藤田平太郎(写真は松本宣秀氏所蔵)
明治2(1869)年、藤田伝三郎とその妻であった通(みち)の長男として生まれましたが、後に伝三郎が結婚した喜多との養子となっています.ふたりの弟、徳次郎と彦三郎の母は真で、平太郎だけ母が違っています.伝三郎生存中に平太郎を補佐すべく理事会が設けられ(1909年)、それ以来、1927年に実質破綻するまでの間、藤田組は所有経営者の平太郎と専門経営者としての桂與一、木村陽二、坂仲輔、田中隆三によって維持されていました.1920年代には藤田農場地代としての米の回収額は巨大になりましたが、次の工事に費やされ「会社の収益には繋がらなかった」とあります.1940年に平太郎が没した後は弟徳次郎の実子で、養子であった光一が社長に就任.これをきっかけに、もう1人の弟彦三郎が藤田組の経営から離れていきました.3区5区の工事は藤田組が破綻した後、7区の工事が進められていた頃は、藤田組がお家騒動の渦中だったということになります.
蛇足ながら、平太郎の日常の住まいは小石川の椿山荘(現在のホテル椿山荘東京、1917年に山県有朋から購入)だったそうです.

【1921年の藤田組傘下企業】
(佐藤英達著 『藤田組の経営者群像』より)
藤田組(資本金600万円)※は特に岡山県に関連
《直営事業》 
○児島湾干拓・藤田農場経営 ※
○長木沢製材所【秋田県】
○浦塩林業出張所【ウラジオストク(ロシア領)】
○八幡屋製材所【大阪市西区】
○新宮林業出張所【和歌山県】
○ダバオ麻椰子栽培所【フィリピン・ミンダナオ島(アメリカ領)】
《直系会社》
○藤田鉱業(株)1917年設立.資本金3000万円
○藤田銀行(株)1917年設立 資本金1000万円
○小坂鉄道(株)1909年設立 資本金100万円
《傍系会社》
○大阪亜鉛鉱業(株)1911年設立 資本金750万円 亜鉛精錬
○日本軽銀製造(株)1916年設立 資本金100万円 アルミニウム硫酸製造
○神島硫酸製造所(株)1917年設立 資本金100万円 硫酸製造 ※
○明治水力電気(株)1918年設立 資本金350万円 水力発電【長野県】
○撫順精錬(株)資本金500万円 満鉄・電気化学・増田貿易と共に亜鉛精錬【撫順(中国)】
○太平洋興業(株)資本金200万円 増田貿易と共にニッケル鉱山開発【ニューカレドニア(フランス領)】
○厚昌鉱業(株)資本金400万円 イギリス・イタリア資本と共に銅山経営【厚昌(朝鮮)】
○淄川炭鉱(株)1921年設立 資本金500万円 大倉組と共同で炭鉱経営【中国山東省】
○梅田製鋼(株)1918年設立 資本金30万円 紡績用リング・スピンドル製造、のちに鐘紡へ譲渡
○南興殖産(株)1918年設立 資本金530万円 ゴム栽培【マレー半島(イギリス領)】
○摂津ゴム(株)1918年買収 資本金10万円 自動車用タイヤ・チューブ製造
○淡路製軸(株)1918年〜1923年 資本金10万円 ポプラ丸太販売
○安治川土地(株)1917年設立 資本金2500万円 大阪の干拓・土地経営
○マグネシア工業(株)1920年設立 資本金20万円 マグネシア煉瓦製造
○片上鉄道(株)1919年設立 資本金200万円 鉄道経営

佐藤英達, 2008

出典: 前田清一 (1965)『藤田農場経営史』   日本文教出版