高島と鳩島の間に広がる砂干潟

昭和27年7月30日発行 昭和24年応急修正 地理調査書作成

第二次世界大戦に参加して全てが軍需一色になっていった時代.1942(昭和17)年9月、現在の岡南飛行場の位置に陸軍機組み立て工場、社宅、試験飛行場が建設されることが決まり、農地の半分以上を意に反して手離した人もいた.戦争が激しくなった1943(昭和18)年12月に倉敷絹織は倉敷航空化工と名前を改めて岡山工場で木製飛行機の製作を開始した.しかし、建設時期が戦争末期であったことと資材も少なく、工員も戦地に取られて集まらず、多くは勤労挺身隊、学徒動員による生産だった.20年6月29日の岡山空襲の被災地支援に追われて工場に出勤できる者はなく、生産は麻痺してしまった.実際に生産された航空機は、立川飛行機が3機、倉敷航空化工は10機ほどであったといわれる.

 

 

平福小学校(1984)『ひらふく 創立10周年記念』岡山市立平福小学校記念誌編集係,p25

▲左:航空用フルフラール製造のための麦わら集荷(昭和18年) 右:現在の旭川河口左岸から岡南工場地帯方向、左写真撮影付近

話者/岡山市南区宮浦 昭和15年生まれ    

宮浦というのは、漁村ではありません.港は、いわば商業港なのです.宮浦には専業の漁師はいません.でも、むかしは、宮浦の子どもはみんな海でよく泳ぎました.高島まで泳いで、何べんでも往復しました.潮の向きによって泳ぐ向きを変えます.潮が上がって行くときは、高島の東側を目指して泳げば高島に着くのです.潮がひいていくようなときには、まず、宮浦から三蟠まで行く船に乗ります.そして、潮に乗って、泳いで宮浦まで戻って来ます.30分くらいかけて泳ぎます.ナメソ(スナメリ)の黒い背中も見ました.今の児島湾大橋の麓のところと西原に樫木の杭が並んでいたのも覚えています.子どもだったから、魚が入っていると網をひきあげようとして、漁師に怒られました.締切堤防ができる前に宮浦の前を通っていたのは南備汽船の船で、その頃は高島の東側は鳩島の方までずっと干潟が広がっていたのです.今も高島に干潟はありますが、本当に小さくなってしまっています.ぬかるんで足をとられるような干潟ではなくて、砂の硬い干潟です.だから、普通に歩く事ができました.掘れば下側はドベが出て、チンダイ(アゲマキ)やモガイ(サルボウ)、アナジャコがいました.

用事で岡山に行くときは、宮浦と三蟠にあった渡しにいつも乗りました.京橋まで上がっていた南備汽船は、潮が引きはじめるとスクリューで泥をかき分けるみたいにして進みました.

締切堤防ができて潮の流れがなくなったし、大きな船が通るようになってかき回すようになって、高島の干潟はなくなったし、高島神社の鳥居の裾を船がつくる波が浸食してしまって、今では鳥居もありません.宮浦には、古くからある獅子舞があって、私も昭和28年頃に天狗舞いを習いました.今もお祭りはありますが、もう、年をとって足が動きません.

                                     聞き手、文/森千恵

 

memo 宮浦像の世代間ギャップ

 

「専業の漁師がいない」宮浦像は、昭和生まれの人たちのものらしい(同ブログ「岡山の郷土史家、湯浅照弘さんの調査の足取りから」の『宮浦の漁師』をご覧下さい) C.M

三蟠軽便が走っていた旭川沿い  

岡山では、局所的情報がたくさん見つかります.旭川に沿って16年間走っていた小さな汽車もそのひとつかもしれません.この軌道があった旭川下流は今も干出する干潟が残り、干潟と堤防の間にはヨシの茂みがあります.吉井川河口の乙子湿地で見られる希少生物も一部確認できますが、範囲はかなり限定的です.しかし、沿岸で集めたいくつもの話から、かつてはこのヨシ原も乙子湿地と同様の環境と生物相があり、川というよりも海水が入り込む環境を身近に感じていたようです.


「汽車が走っていたのは、現在の産業道路(45号)の旭川側のところです.そのころは田んぼしかありませんでした.旭川ではヘイタイガイとかチンダイガイとか呼んでこれ(アゲマキ)をよく捕りました.懐かしいです.これまで、一番驚いたのは、昭和21年の南海地震が起きたときで、倉安川から南の方の家が全部なくなりました.辺りが全部砂になったのです.今いう液状化だと思います.地面にヒビが入って、人が挟まれて亡くなったんです.何もなくなって、南の方を向こうまで見渡せました.」


「家の近くでナメソ(スナメリ)を3、4回見ました.川で泳いでいたときに通り過ぎたこともありました.大人からは「ナメソを傷つけてはいけない」と言われていました.ナメソが血を流すと魚がいなくなると教わっていました.ナメソは、背びれがなくて1.5mくらいでした.通り過ぎるときは水が盛り上がって灰色の背中だけが太陽に輝いていました.」

                                     聞き手、文/森千恵

memo

南備海運 容量/18t 250名収容可能 、船便/14往復、船運賃/京橋ー甲浦6円、航路/京橋ー三蟠ー宮浦ー小串ー・・・牛窓、小豆島

○朝夕のラッシュ時には危険を犯して500名ほど乗船

○岡山バス 1日10~12往復、運賃/京橋ー三蟠港 3円50銭


調査書類『汽車会社専用側線の買収について』国鉄岡山管理部, 1947

C.M

memo

岡山市桜橋から三蟠間を大正4(1915)年8月11日から昭和6(1931)年まで走っていたという三蟠軽便鉄道.八浜の貝養殖会社の経営者、藤原元太郎は、この三蟠軽便鉄道株式会社の経営にも携わっておりました.

C.M

旭川の河口の思い出、三蟠の子どもが見たもの

話者/岡山市北区 大正9年生まれ

私の家は三蟠にありました.宮道の対岸、旭川の右岸には松ケ鼻の松があって、その下流はたくさんの生き物がいました.京橋までは浅瀬でした.松の下の方は砂浜で海水浴場にもなっていました.黄シジミやアサリやオオノガイ、ハイガイが捕れます.澪があって四ツ手の白魚漁もやっていました.白魚は蒸篭に並べて出荷されていました.卵とじや水飴煮が美味しかったです.ツナシ、ボラ、イナ、ウナギがいて、雨降りの前には鯛やボラがよく飛んでいました.カブトガニは河口より少し外側の右岸側にいました.ママカリの甘酢煮が美味しくて好きでした.タイラギがいたのは河口よりも高島の方の泥のところです.左岸の堤防の石の間にはテンゴウエビ(テナガエビ)がいて、テンゴウ網で後ろから掬います.エビはバックで網に入って来ます.バケツいっぱい捕れます.皮を剥いて崩して蝦団子にします.干潟にはクモガニ、ヘイケガニ、カタツメ(シオマネキ)がいました.北浦丸という船が通って行きました.高島と飽浦の間のところには、春から夏にかけて傘の大きさが50cmにもなるビゼンクラゲが潮にのって入って来ました.毎日、雨の日も風の日も伝馬船を漕いで高島から三蟠までやってきて、歩いて操南小学校に通ってきていた同級生がいました.小学校5年、6年のころのお話です.

                                                                                                                 聞き手/米本久美子、編集/森千恵

話者/岡山市北区 昭和18年生まれ

私が故郷の愛媛から岡山大学に来たのが昭和36(1961)年のことです.ヨット部に入って児島湾に毎日通っていたのです.バスを横浜製糖(現在三井製糖)で降りて岡山港まで歩きました.当時は築港光町やあけぼの町の辺りには何もなく、たった1軒、「セーヌ」という喫茶店がありました.ほかは何もなく、夜は真っ暗で、ヨットの備品が盗まれることがあるので学生が交代で泊まり込んで見張りをしていたのです.その頃、暗闇で目印になるのは金甲山のテレビ塔だけでした.ヨットの練習は、岡山港の沖でします.漁をしている人を見かけることはなかったように思います.岡山港の奥の方は干潮時間には干潟が出るのでヨットが乗り上がっていました.高島にも練習でよく行きました.その頃、お年寄りがひとり高島に住んでいて、必要なときには旗を揚げて迎えに来てもらっていました.ヨットに乗って旭川も遡り、桜橋の辺りにも行きました.やがて鹿田キャンパスに移ったので住まいも津島から船頭町に引っ越してから、二日市にあった魚市場に歩いてよく行きました.締切堤防は、もうできあがっていて、今のようにコンクリートのがっしりしたものではなかったですが、堤防の上を車が走っておりました.

                                     聞き手、文/森千恵