《魚市場》があった桜橋、大きな船が荷物をおろした京橋

《上の浜》の下(流側?)に置かれた《下の浜》は「雑喉浜」、あるいは「夜通れば魚鱗、蛍の如く輝いた」ので「蛍町」とも呼ばれて賑わった.2つの浜をひとつにした渡海場を片瀬町に作る事が一度は決まったが、船舶の出入り便宜のため上下の2つの浜の形態が1938年までは継続していたようだ.

出典:岡山市史編纂委員会(1938)『岡山市史 第6編現世』   岡山市役所、吉崎治夫(1983)『わたくしたちの福田村』

岡山旭川、桜橋周辺 2016年4月

                                   撮影:もりちえ(2016)

旭川京橋右岸 1950年代

八浜からも毎日通っていた船があった



彦崎川(倉敷川)

鉄道だけでは船の輸送力に代替し得ず、倉敷川(彦崎川)は物流の一つの拠点彦崎への主要航路でありつづけた

出典:灘崎町 (1990)『灘崎町農業発達史』   

岡山の観光マップに京橋発着の航路が残る(発行年不詳)