完成前後の児島湾堤防締切堤防内の水辺の子ども時代

話者/岡山市南区中畦 昭和23年生まれ

▲チンダイ篭

▲バカン篭

▲魚を選り分けた篭

▲舟の櫓

「チンダイ(アゲマキ)捕るには、漁業組合の別の鑑札が要ったからな、コマいのは、わしらも捕っても何も言われんが3年ものの12,3cmもあるのを捕るとでっれー怒られて取り上げられたんじゃ.沖で鑑札員がよく、“もってるか?”て聞いてくるんじゃ.コマいのはいくらでも捕れた.これにいっぱい積んでな、2段にして自転車に積んで運ぶんじゃ.いっぱい湯がいて、ジャガイモと炊いて、美味しいけど飽きるわ.美味しかったのはマクラガイ(ウネナシトマヤ)、小学校5、6年のころまでは捕って良く食べた.六区の向こうの樋門のところには、捨て石の下とかカキの間にハサガッてどこでもいた.味が濃くてなあ、アサリの比じゃない.食べるもんがなかったのもあるかもしれんが、あれは美味かった.

 淡水湖になった後も渋川に泳ぎに行くのには三連(丙川樋門)のところから船で出た.船を進めればママカリやらイナとかボラが飛び込んできた.魚がぶつかってくるんじゃ.それをおもしろがっていた.持って帰って焼くとか炊くとかして食べることもあったが、ぼっこー美味くもない.西大寺の会陽なんかも三連から船で行った.

 その頃はすぐそこの川(用水路)で四ツ手網していたんじゃ.六間川っていうくらい広い用水路だったからな.そのころもときどきは自転車ごと落ちたりしたし、1件にひとりふたりは川で小さい子どもを亡くしたりしていたが、大人や大きい子どもが落ちても泳いで上がって来れた.今は上がって来れんからな.透き通った水というのではなかったけれど、流れていてきれいだった.五右衛門風呂を沸かしすぎたときなんか、裸のまま慌てて川で汲んで来るから、よく藻やらメダカやらが風呂に入った.

 冬は「穴掬いせんかぁ」って言って川に掘っておいた穴に溜まる魚を捕った.大きな味噌ときのような網で、冷たい水ん中でじっと動かない寒ブナを、上から掬い捕るんじゃ.田植え過ぎたらフナやっこ捕らん、食べれん.5cmくらいの小せぇフナは干して練炭か火鉢で焼いて砂糖醤油にチュンと付けて美味しかった.そんくらいの大きさのは骨が固くないからな.あと美味かったのはドンコツ(ドンコ?)じゃけど、あんまり捕れなかった.40年、50年、ここいらでは見たことないな.足守の方には居るらしいがな.

 ウナギは居ったよ.学校から帰って来て、まずナガセにつける餌を捕りに行くんじゃ.コマいザリガニよ.30本くらい仕掛けるから、それだけエサがいる.ウナギはかかっていれば糸がピンと伸びているからわかる.30本かけても、ひとりが捕れるのは3、4匹じゃけど居った.ウナギはもちろん蒲焼きで食べる.天然のウナギじゃ.今はカメ(ミシシッピーアカミミガメ)とナマズと、ときどきスッポンとライギョ.

 

 そうやって、つい帰るのが遅くなったり、宿題をしとらんかったりして怒られると牛小屋に繋がれたんじゃ.真っ暗の中で、縛られている手を後ろから牛がねぶるんじゃ、気ン持ち悪くてなあ……」

 

                                     聞き手、文/森千恵

児島湾締切堤防完成のころに興除から嫁いできた

話者/岡山市南区藤田 昭和11年生まれ

昭和32(1957)年に興除から嫁いで来ました.興除は完全にできあがった土地だったけれど、藤田は30号線から向こうはまだ海で、何もないという感じでした.潮の匂いがしたという記憶はないけれど、夏は夕凪が暑かった.冬は何もないところだから風が冷たかった.藤田の支所の辺りに妹尾の漁民が舟を留めていました.冬に日が暮れるとガス灯をひとつもって漁に出て行ってたのを覚えています.四ツ手網をしないときには色々なものを運ぶのに舟を使っていました.

興除辺りの人なども、田んぼが遠くにある人は皆舟を持っていて、藁や籾など、それで運んでいました.車もないし、道も狭いから、運ぶのは皆舟でした.2艘3艘と繋げて、舟に棒をつけて縄を繋ぎ、陸から引っ張って運んでいました.漕ぐのではないのです.

家は舟がなかったで、陸から四ツ手を下ろしたり、前の妹尾川でおかずになる魚を捕って食べていました.大きい鮒は皮ごと剥いで鱗を外して塩をして干します.南蛮漬けなどにもしました.小さい鮒は焼いて干しました.それを昆布で巻いて、それをさらに炊いたり.生を食べるときは塩で揉んで鱗を落としていたと思います.小さい鮒は焼いて、鱗を落として干します.稲刈り前の頃に水をせき止めて、そこに集まった魚を捕るのです.冬の間の食料です.ナマズもウナギもいました.その頃は水もきれいで、夏は少し濁るけれど冬には透き通っていました.風呂水も妹尾川から桶などを使って子どもが運んでいました.だから、メダカといっしょに風呂に入った思い出話もよくあります.風呂は五右衛門風呂です.確か妹尾の左官が作ってくれたものだと思います.風呂の修理もクドを作ってくれるのも、その左官でした.風呂やクドで使う燃料は、薪などないので、藁やスクモや大豆の枝や豆殻などを使っていました.稲刈りした後は藁グロを冬中積んで乾かしておきます.それが燃料や牛の餌になりました.その頃は、農家をやっている家には力仕事をさせる牛がいました.茶屋町にタキヤリとかいう馬喰がいて、餌がなくなる夏には、馬喰のところまで牛を連れて行き、そこから新見の山の方に連れて行ってもらって山に放して餌を食べさせます.牛を買ったのもそこです.

飲み水は、興除でも藤田でも天水を炭と砂とシュロの皮の三層のところを通して濾過した水を地下に掘った井戸に貯めたものをつるべで汲み上げて使っていました.私が嫁いだ頃には、藤田にはもう水道がありました.

                                     聞き手、文/森千恵

昭和31年ごろの岡山市南区大福      

笹ヶ瀬川にあった大隅港         撮影:内田栄二氏

現在/笹が瀬川・大隅港があったところ    

昭和40年代〜50年(写真ウラに藤田錦 笹ヶ瀬川の文字) 撮影:湯浅照弘氏

笹ヶ瀬川を渡る宇野線鉄橋(昭和30年頃 撮影:内田栄二氏)と現在(対岸より)



memo

児島湾堤防の潮止が完了して間もない昭和31(1956)年に設置された岡山県水産指導所児島養魚場は、翌年4月に廃止されて、昭和36(1961)年には、その半分を藤田村養鰻漁業生産組合(高橋力組合長)が引き継ぐことになった.また、昭和43(1968)年には第二養魚場として東畦の石井春吉氏が岡山県に使用料を支払って経営し、京阪神方面へ鰻、鮒を出荷している.

この頃は灘崎、興除、藤田のあちこちで養鰻業が流行だして水田を養魚場に切り替えた農家も多かったようだ.昭和63(1988)年発行の岡山市精図(中国地図出版)にも、この水産試験場跡の養鰻場と大曲の養魚場以外に、藤田、錦六区に8カ所ある.昭和44(1969)年には水産試験場養殖場(児島漁業場)の土地と養魚場一式(土地面積5.69ha、5,081,547円)についての売買契約が、岡山県(加藤武徳知事)と児島湾淡水漁業協同組合(浅越和夫組合長)の間で成立し、所有権は移っている.

養殖業は間もなく除草剤、農薬、水質悪化、稚魚の高騰と入手難、配合飼料によるコスト高、売値の低迷で廃業した.

なお、水産試験場の実験は、以下の項目.

ウナギ養殖、ワカサギ人工孵化、ティラピア養殖、コイ養殖、キンギョ養殖、淡水真珠養殖

★写真は妹尾川が倉敷川に注ぐ付近にある藤田養鰻場跡

C.M