青江潟のウナギ捕り名人

昭和30年9月26日岡長平氏ほか撮影のネガから現像 人物が浮田与三郎氏(当時78歳)、戸田三十郎氏(当時63歳)のいずれかは不明  児島湖発達史, 1972, 児島湖発達史編纂委員会 より

福濱村史, 1927, 岡山県御津郡福濱村 より ※赤印は現在の青江交差点付近

「ずーっと向こうまで干潟だったんだよ」を想像してもらう

岡山市南ふれあいセンターから南方向を80年くらい時間をまきもどしてみる

岡山市南区南輝小学校の校庭を眺めながら、80年くらい時間をまきもどしてみる

旭川の河口から80年ぐらい時間をまきもどしてみる

スナメリの光る背中が見えるかな.

潮にのって泳いで帰って来る男の子の姿がみえるかな.

トビハゼやシオマネキがいたヨシの茂みが見えるかな.

大挙して上って行くエイの影が見えるかな.

京橋まで行ったり来たりする船が見えるかな.

延々と続く並木の松が見えるかな.

干潟で貝捕りをするたくさんの人たちが見えるかな.


福濱小学校の放課後 

話者/岡山市南区福田 大正13年生まれ

青江の干潟があったのは、現住所で言えば岡山市南区浦安西町、浦安本町、南輝、あけぼの町、築港緑町、新町、ひかり町、元町、中央市場がある市場町と海岸通ということになります.ここは潮が満ちるときに樫木にたくさん魚が入る漁場があり、それぞれヨザエモンザオ、ナカノサオ、カンノシ(ャ)という名前で呼ばれておりました.ほかにも西から注ぐ笹ヶ瀬川の河口にヒキガシ、東側の岡山港の位置にはシモザオという漁場もありました.さらに沖にはオキノト、コオリザオ、ワンザキの3つの漁場があり、福田から杭に雷が落ちるのがよく見えたそうです.

大正13(1924)年生まれのAさんが語ってくれた福浜小学校時代の思い出は、次のようなものでした.

「とにかく学校では、毎日の潮の時間がみんなの一番の関心事でした.潮がひく時間が気になってしかたがなかった.ちょうど良く潮がひく日には、親には内緒で学校の帰りに必ず干潟に行きました.古い堤防の近くに薮があって、そこにいつも道具を置きっぱなしにしてあるのです.カバンを置いて、イタと篭を持ってチンデーを捕りに行くのです.チンデーは、一個ずつ捕ると思っていませんか?違うのです.乗って行くイタとは別に50cmくらいの長さの板を持って行って、それを泥の差し込んで引っ張ると、まるで蜂の子のようにぼろぼろと捕れるのがチンデーでした.篭いっぱいに捕って、潮に追いかけられるようにして堤防に戻って来ます.上がって来る潮は早かった.自動車くらい早かった.カンノシのところ、今の阿部池の辺りからさーーっと上がって来ます.堤防のところに来ると、子どもからチンデーを買い取るおじさんが待っていてね、良いお小遣い稼ぎになるのだけれど、それよりなにより捕るのが面白かった.小学校を出ても貝を捕って、それで家を建てた友だちも居ましたけれどね.そうやって、親に内緒で干潟に出るのだけれど、日に焼けて真っ赤な顔になっているわけです.鼻のアタマに泥を塗って隠すのだけどバレます.『また行ったじゃろ!』って.おばあさんもチンデー捕るのが好きでした.家には、いつも一斗缶にいくつも干したチンデーがあって、『腹減った』といえばチンデーが出て来ました.美味しかったですけどね.」

                                                聞き手、文/森千恵

現在の岡南大橋右岸側付近にあったという勘太郎松

寛永元(1624)年に作られた堤防は、現在の南ふれあいセンターの南を通る道路が走る位置で、昭和26(1951)年から昭和59(1984)年まで岡山臨港鉄道があったところでもあります.そして福島に560本、福成に210本、福田に210本の松の並木があった通りでもあります.

その松並木を海から眺めた風景と思われる記述を成島柳北の航薇日記の中に見いだした著書もあります※.

「・・・児島の北浦にいたる、右に松原数里打ち続き風景頗るよし、松原の間に入江あり、これ備中備前の界なり、東の方岡山の城を望む、折しも夕陽児島の山に落つ、また一奇景といふべし」

※岡長平(2011)『明治初頭の備中妹尾『航薇日記』を読む:成島柳北原著』


福濱村誌には勘太郎松が池田綱政公に描かれた文も紹介されています.

四時緑濃やかに松籟いとも妙なり

福島松ヶ鼻にあり、幹の太さ一丈七寸

老梢蟠屈して水を掬う

偽銀貨鋳造事件が起きた頃のこと「闇にまぎれて鳩島に盥を漕ぎ出したのは、この松の下辺りからだった」という記述もどこかで見かけた気がします.


時代を下って昭和7(1932)年生まれの妹尾の人の記憶にある松ヶ鼻の松の思い出は次のようなものでした.

「今の福島の東の端に大きい松があって、その下側はすごい湿地帯でした.福島を出たところは砂地で砂埃も酷かった.」

                                         文/森千恵

昭和8年の堤防、樋門建設写真には松並木が見える

三区五区築堤前と現在の阿部池南東堤防付近